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移動と律動と眩暈と

移動と律動と眩暈と

野村喜和夫

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1人が登録
154回参照
2013年3月20日に更新

書籍情報

ページ数:
213ページ
参照数:
154回
登録日:
2013/02/13
更新日:
2013/03/20

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読書履歴

2013/03/20 213ページ
2013/03/20 115ページ 奇妙な言い方だが逃走とは固定性不動性への逃走でありいまここに凝りかたまりいまここというすすまない瞬間の無限のゆらぎのなかに逃走してゆくのである。なぜならば固定されるわけがないいまここが固定されるという矛盾においてこそ事物は事物のようにみえてしまうのであり言葉は言葉のように生きられてしまうのであってそんなことをしたらシステムは壊れてしまい人は狂ってしまう。でもすてきなのだ。そしてすてきは生理である。「写真と詩法―『風の配分』のコラボレーションについて」p.115
2013/03/20 112ページ 詩は物語からの逃走だ。たぶん写真も映画からの逃走である。ふたつの逃走がどこかで出会ってしまうとしてもそれは逃走それ自体の責任ではないだろう。宇宙が時空であるからいけないのだ。「写真と詩法―『風の配分』のコラボレーションについて」p.112
2013/03/20 100ページ 「光の身体的推量。共同体的凝視のプロセス。新たな「失われた環」。広汎性の退きゲージ。不確定性とのつきあい。容積のバイパス。出発点の膜。随伴現象的パス。どこでもないところ。理解のきわ。屈折のある幾何学。累増的マトリックス。惑星の叫び。ザン・ウイッチ・ノー・アザー。死なないために / ヘレン・ケラーの部屋。逆シンメトリー横エンヴェロープ・ホール。凝視のブレース。潜在的知覚者の集まり。超越的調整器。再集合の架台。不消滅性の形成」。「原母頌―荒川修作とともにあること」p.100

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