この本について
3巻の「図式論」と「原則論」では、カテゴリーの根拠づけが対象にたいしてどのように機能するのか、それと時間がどのように関係するのかが解明される。イギリス経験論(ヒューム)を根本的に批判し、認識の主体と対象の相互の関係を論じた観念論も批判する。
みんなの評価
4
5
4
3
2
1
レビュー
H. Tarkun
2011年5月読了
叡智的存在(スーメノン)が消極的に理性の限界を示すものであるという点は面白い。
例えば、量子論では物質を構成する粒子は波で、存在場所は確率的に示されるという。では、例えば、我々自身も物質であるが、我々がそのような実在を想像できないものによって構成されていると理解できるだろうか?理性が論理的に考える事はできても、感覚的にその実体を想像する事はできないのではないか。
つまり、理性が論理によって考えているのは単に現象を理解する分析的説明でしかなく、「構成粒子」そのものの実在を示すものではないと。カントの言いたいのはそう言う事ではないかと考えてみた。
カントの哲学は、相対論、量子論で古びたという指摘もあるみたいだが、むしろ、カントは量子論のような世界を予言していた、少なくともその可能性を否定していなかったのではないか? その辺りの議論に付いても調べてみたくなった。
例えば、量子論では物質を構成する粒子は波で、存在場所は確率的に示されるという。では、例えば、我々自身も物質であるが、我々がそのような実在を想像できないものによって構成されていると理解できるだろうか?理性が論理的に考える事はできても、感覚的にその実体を想像する事はできないのではないか。
つまり、理性が論理によって考えているのは単に現象を理解する分析的説明でしかなく、「構成粒子」そのものの実在を示すものではないと。カントの言いたいのはそう言う事ではないかと考えてみた。
カントの哲学は、相対論、量子論で古びたという指摘もあるみたいだが、むしろ、カントは量子論のような世界を予言していた、少なくともその可能性を否定していなかったのではないか? その辺りの議論に付いても調べてみたくなった。