読書履歴
2010/07/15
221ページ
2010/06/01
206ページ
礼拝を表すもっとも普通の語は「ひれ伏す」。聖なる神の前で罪ある自分を自覚することが大前提である。
2010/05/26
183ページ
戦時下の日本の教会は、黙示録13章の「獣」幻の意味を理解することが出来ず、「獣」の礼拝と「小羊」の礼拝を同時に行い、ついに証人としての力を失った。
2010/05/25
174ページ
岡山師「黙示録は礼拝の書であり、礼拝で「朗読されるため」に書かれた」黙示録1:3」
2010/05/25
167ページ
「自分を変えなさい」だけでなく、「心の一新によって」も内田師は、受動的意味に解釈する。
2010/05/25
150ページ
パウロがアデルフォイを使う時は、言いにくいことを言わなくちゃならない時?
2010/05/25
146ページ
ローマ12:1のパラカレオーは、お願いではなく、権威を伴う勧告では?(内田)
2010/04/27
115ページ
詩篇132篇9節・16節の祭司と民は並行法の観点から、同じ立場として共に礼拝の恵みにあずかっていると考えられる。
2010/04/15
110ページ
「都上りの歌」のほとんどは、内容から判断して、個人の経験がベースになっていて、後になって巡礼の時の集団で歌われたと考えられるでしょう。信仰は、まず神の前における個人から始まり、礼拝は信仰者の集団(礼拝共同体)において完成するのです。
2010/04/15
106ページ
グンケル以来の詩篇の類型研究は、似通った詩篇を類別して共通点を見出したという貢献があるが、個々の詩篇の独自性を軽視するという問題もある。
2010/04/15
106ページ
第一神殿時代の祭儀の実際は不明
2010/04/15
103ページ
<相違>異教においては、祭儀は道徳を超えており、祭儀の中では一般的には不道徳とみなされることも許された。また、おつとめが終われば、俗にもどれる、という感覚があったが、聖書のリフネーアドナイは全生活に共通する。
2010/04/15
103ページ
<聖書の礼拝の独自性>礼拝が倫理道徳と密接に結びついている。
2010/04/15
102ページ
<相違>バアルの祭司がモアブにいってケモシュに仕えることがあった。しかし、聖書の祭司はそういうわけにはいかない。
2010/04/15
101ページ
大切なことは、聖書の「礼拝」が当時の周辺世界のそれとどう似ていたかということよりも、どのように違っているかということです。類似点よりも相違点こそ重要なのです。
2010/04/08
97ページ
カナンの「エル神」が牡牛
2010/04/07
97ページ
礼拝の貧困は、神を知る知識の貧困から来る
2010/04/07
97ページ
礼拝がいのちを失っているからこそ、今、神ご自身よりも礼拝が問われているのだと言うと行き過ぎでしょうか。
2010/03/23
80ページ
ナダブとアビフの罪はその「自家製礼拝」。仮に善意であったとしても、私的に神を解釈しているところに、罪がある。
2010/03/23
78ページ
レビ記が教えていることは、どうすれば「神に受け入れられる」か。あくまで主体が神にある。
2010/03/23
68ページ
2010/03/23
68ページ
御言葉が朗読され、応答としての祈りがささげられるとき、その時に初めてすべてのものは聖くされる。
2010/03/23
68ページ
御言葉が朗読され、応答としての祈りがささげられるとき、その時に初めてすべてのものは聖くされる。
2010/03/23
63ページ
「みだりに」=空虚に・内実のない
2010/03/23
62ページ
私たちは今日、本当の詩人を必要としています。←讃美の歌詞の貧しさについて
2010/03/18
56ページ
エポデも!?
2010/03/18
56ページ
ちょっと!テラフィムは、ヤハウェの像だったの?
2010/03/18
56ページ
偽りの礼拝は、いつも、神を最高のお方と認めないことから生まれてきました。
2010/03/18
55ページ
礼拝はworth・ship「価値あることを認めること」
2010/03/18
53ページ
神を礼拝するにあたって、私たちには、救いの感謝と喜びがあるかどうか、本当に神の前に立っているかどうかということだけが問われていると思うのです。
2010/03/18
51ページ
出エジプトの目的は神に仕え、神を礼拝すること
2010/03/11
46ページ
預言者について:なぜなら彼らは、モーセの律法のもとで成立した礼拝と、新約聖書のもとで成立していく礼拝との中間的位置に立っているからです。
2010/03/11
42ページ
ハヴァー(hwh)ひれ伏す=礼拝。「神への畏敬と、神に対する徹底した従順が表されるところが礼拝なのです。」
2010/03/11
36ページ
十九世紀のリベラリズムは、啓蒙思想という「理性万能」の思想に、教会が適応しようとしていった結果生じたものであると言えるかもしれません。
2010/03/11
28ページ
カルバン「礼拝において我々は受身である。なぜなら神がアクティブ(積極的)であるから」
2010/03/10
23ページ
迷わずに聖書に向かう事がわたしたちの取るべき道
2010/03/10
4ページ
「礼拝」の問題は、いかに礼拝するかということよりも、礼拝の対象であられる神をどれだけ親しく知っているかにある